新年が明けてから「幸せとは何か」ということを
考えながらいろいろと調べていたら、
仏教の教えにたどり着きました。
宗教というと、一部の新興宗教などでは
信仰を強制されるような印象もあり、
そういう意味で敬遠したくなる人も多いかと思います。
(私自身もそうでした)
ところが今回、仏教の教えを学んでみて、
思っていたよりもかなり科学的かつ論理的な
教えなんだという驚きを感じました。
生きる苦しみから解放されるための様々な智慧が
詰まっていますので、憂うつな気分や慢性的な不安感に
苛まれがちなうつ病の方にも参考になると思います。
ちなみに仏教とは、紀元前500年ごろにインドに生まれた
ゴータマ・シッダールタという人が説いた教えです。
悟りを開いて仏陀(ブッダ)と呼ばれるようになりました。
ほかに、釈迦(シャカ)や釈尊などとも呼ばれています。
人生とは「苦」である
仏教では、人生を「一切皆苦(いっさいかいく)」と
捉えており、「人生は全て苦しみだ」と書かれています。
いきなり身も蓋もないようですが、
言われてみると確かにそうかもしれません。
仏教では、人生を8つの苦しみに分類しています。
(1)生苦(せいく):生まれる苦しみ
(2)老苦(ろうく):老いる苦しみ
(3)病苦(びょうく):病気になる苦しみ
(4)死苦(しく):死の苦しみ
(5)愛別離苦(あいべつりく):愛する人と別れる苦しみ
(6)怨憎会苦(おんぞうえく):憎い人に会わなければならない苦しみ
(7)求不得苦(ぐふとくく):物質的・精神的を問わず、欲しいものが得られない苦しみ
(8)五取蘊苦(ごしゅうんく):人間存在そのものが感じる苦しみ
「四苦八苦」という言葉は、
この8つの苦しみが語源です。
「苦」とは「思い通りにならないこと」
仏教では、「苦」を「思い通りにならないこと」と捉えます。
つまり、人間が苦しむのは、
「思い通りにならないことを、思い通りにしようとする」
からです。
では、苦しみから逃れるにはどうすれば良いかというと、
「思い(執着)」を捨てれば良い、ということになります。
自分への執着とモノへの執着
我々を苦しめる「執着」には2種類あります。
1つは「自分への執着」、もう1つは「モノへの執着」です。
(ここで言うモノとは、物質的なモノだけでなく、
感情などの精神的なモノも含まれます)
たとえば、人が怒りを感じて苦しむ時などは、
「自分」を軽んじられた時などです。
「自分への執着」が無ければ、
確かに心穏やかに過ごせそうです。
「モノへの執着」と言えば、思い浮かぶのは
「お金」や「恋愛感情」などでしょうか。
人はお金のために苦しみ、時には殺人までも犯して
これを奪い取ろうとします。
まずは、「自分への執着」を捨てるために大切な
「縁起」という考え方からお話していきます。
縁起の理
「縁起」という言葉自体は聞いたことがあると思います。
「縁起が良い」とか「縁起をかつぐ」なとと言いますね。
しかし、「じゃあ、縁起って何?」と聞かれると、
イマイチうまく答えられない方も多いのではないでしょうか。
縁起という言葉は、「縁(よ)って起こる」と書きます。
「Aがあることに縁って、Bが起こる」
何かがあるから他の何かが存在する、というように、
全ては「関係性」で成り立っている、という考え方です。
こう言うと、「なんだ、そんなの当たり前じゃないか」
と感じるかもしれません。
しかし、以下の3つの例を考えてみると、
「縁起の理は、全ての物事に当てはまる宇宙の真理」
と感じていただけるのではないでしょうか。
3つの例とは、「パレートの法則」「働きアリ」
「コヨーテと鹿」です。
パレートの法則と働きアリ
ビジネスマンの方なら、ご存知の方も多い「パレートの法則」。
「会社の8割の売り上げを上げているのは、
たった2割のエリート社員である」という法則ですね。
では、複数の会社の2割のエリート社員を集めてきて、
1つの会社を作ったらどうなるのでしょうか?
エリートだらけの会社の中でもやっぱり、2割のエリート社員と
その他8割の社員に分かれてしまうそうです。
働きアリも同じです。
働きアリの中でも、よく働くアリと、そうでもないアリは
2:8に別れるそうです。
そしてやっぱりよく働くアリだけを集めて
グループを作っても、その中で2:8に収束していきます。
つまり、2割のエリートがいることに縁って、他の8割が起こる。
これは逆もまた真なりで、8割の社員がいることに縁って、
2割のエリート社員が生まれる、という「縁起の理」によって
成り立っているのです。
ではこの関係性「縁起の理」が崩れてしまうとどうなるのか?
コヨーテと鹿の例で見てみましょう。
縁起の理は宇宙の真理
ある島に、コヨーテと鹿が生息していました。
コヨーテはお腹が減ると鹿を食べます。
これは、自然界の掟「食物連鎖」に則った行動であり、
コヨーテが悪だとかいう話ではありません。
ところが、ここに人間が介入して、
鹿を食べるコヨーテを全て殺してしまいました。
これで鹿は安心して暮らせるだろうと思ったのも束の間、
天敵のいなくなった鹿は異常繁殖してしまいます。
草などを全て食べ尽くしてしまい、
食料のなくなった鹿は全滅してしまいました。
これは実話ですが、この話の中にも「縁起の理」が見られます。
コヨーテは、鹿を食べて生きていたのと同じように、
鹿もコヨーテがいたからこそ、適正な生存数を保って
存在し続けることができていました。
つまり、鹿とコヨーテ、どちらも単体では存続できず、
両方いて初めて関係が成立するのです。
この「縁起の理」というバランスが崩れると、
鹿が全滅してしまったように、世界は成り立ちません。
つまり、「縁起の理」は
宇宙を成立させている「真理」と言えるわけです。
縁起の理を理解すれば、自分への執着がなくなる
さて、私たちが苦しむ原因の一つ「自分への執着」は、
前述した「縁起の理」を深いレベルで理解すると、
捨て去ることができるようになります。
「縁起の理」を知ると、そもそも関係性のない中で
生きるということは成立しないことがわかります。
目を閉じて、「自分」がどのような縁で
生まれてきたのかをちょっと想像してみてください。
自分の両親がいて、先祖がいて、遡っていくと、
地球上に初めて生まれた生命体、しまいには
宇宙の始まりビッグバンにまでたどり着きます。
自分が存在する環境について考えてみると、
今立っている地球、周囲の星々…と視野を広げていくと、
宇宙の果てにまでたどり着きます。
また、小さくなって自分の体の中を見ていくと、
体を構成している内臓、それを作っている細胞…
といった具合に、時間や空間を超えたあらゆるものと
関係があるのが見えてきます。
自分と自分以外の関係性に注目すると、
「他者がいるからこそ自分が存在できている」
ということがよくわかります。
つまり、自分と他者を切り離して考えること自体に
意味がないと気づくわけです。
ここで初めて「自分」と「自分以外」の一切に
境界線がなくなり、自分に執着する意味が
なくなってくる、というわけですね。
空(くう)という概念
「自分への執着」は、「縁起の理」を
深く理解することで捨て去ることができます。
では、苦のもう一つの原因「モノへの執着」は、
どのように考えれば良いのでしょうか。
(ここで言うモノとは、物質的なモノだけでなく、
感情などの精神的なモノも含まれます)
まず、モノを見る時に、人は「思い」と「言葉」で
それを理解しようとします。
たとえば、あなたにイヤミばかりを言う
イヤな上司がいたとしましょう。
あなたは、「憎い」という思いと言葉によって、
その上司を見ることになります。
一方、その上司はとても子煩悩で、
自分の子どもにはとても優しかったとします。
(半沢直樹に出てきた浅野支店長のようなイメージです。)
すると、その子どもは父親のことを
「優しい」という思いと言葉で捉えます。
同じ上司なのに、あなたと上司の子どもでは
見え方がまるっきり変わってしまいます。
これは、あなたも上司の子どもも、
その人に対する「思い」と「言葉」に惑わされてしまい、
「あるがまま」の上司の姿を捉えられていない、
ということになります。
さて、ではこの上司の「あるがままの姿」とは、
一体どんなものなのでしょうか?
それを、仏教では「空(くう)」と捉えます。
「空」というのは、読んで字のごとく、
からっぽ、ゼロのこと。
つまり、それそのものには価値はなく、
「ただそこにあるだけのもの」という意味です。
色即是空、空即是色(しきそくぜくう、くうそくぜしき)
「色即是空、空即是色」という言葉を、
どこかで見たり聞いたりしたことはありませんか?
私の場合は、たしか中学の時の国語の教科書で
夏目漱石の文章の中に、この言葉を見た記憶があります。
当時は意味もわからず、また興味もそれほどなかったので、
調べようとすら思いませんでしたが、何となく
「すごい意味を秘めていそうな言葉だな」
と感じた覚えがあります。
「色(しき)」というのは、物質的なモノから、観念的な概念や
感情なども含めたあらゆるモノのことを指します。
つまり、「全てのモノには価値はない」ということを
言っており、「全てのモノはあるようでもあり、
またないようでもある」といった意味になります。
「空」の考え方を深く理解し、モノを「あるがまま」に
見ることができれば、「苦」の2つ目の原因
「モノへの執着」を捨て去ることができるようになります。
(「あるがままのもの」のことを「真如」と言います。)
「瞑想」で執着を捨て去る
「苦しみから逃れる理屈はわかったけど、
実際に執着から逃れるにはどうすればいいの?」
その方法は、ズバリ「瞑想」です。
仏教では悟りの境地に至るまでを
「念(ねん)→定(じょう)→慧(え)」という3つの言葉で表しています。
「念」とは、同じことを何度も思い浮かべること。
「定」とは、心が落ち着いた状態。
「慧」とは、ものごとをあるがままに観察できている状態を意味しています。
つまり、「一つのことを一心に念じ続けることによって、
心が落ち着き、清浄になり、ものごとをあるがままに
観察することができるようになってくる」ということです。
瞑想の手順
一つのことを一心に念じるには、「呼吸」に意識を
集中することが勧められています。
(1)心を落ち着けられそうな場所で、目を閉じて座る
場所は自分の部屋など、集中しやすい所が良いでしょう。
椅子に座ってもいいし、あぐらをかいても、正座でも、
自分が落ち着くのであれば、座り方は自由です。
(2)丹田(へそ下10cmあたり)に意識を集中し、ゆっくり呼吸する
息を吸うときはお腹をふくらませ、
吐くときはお腹をへこませる。
これを腹式呼吸と言います。
自律訓練法などにも使う呼吸法です。
この「お腹の動き」に注目し、集中します。
(3)雑念がわいてきたら「私は○○のことを考えている」と何度か唱える
たとえば、瞑想中に先ほど出てきた
イヤミな上司のことを思い出してしまったとします。
まず雑念がわいている状態に気づいたら、
「あぁ、いま私は上司のことを考えているなぁ…」と
繰り返し頭の中で唱えます。
すると、その雑念は不思議なことに消えてしまいます。
(4)雑念が消えたら、また呼吸に集中します
あとは(2)と(3)の繰り返しですね。
最初のうちは、自分でも驚くほど
いろんな雑念が次から次へとわいてくると思いますが、
何日も続けていると、次第に心のコントロールが
上達していることを実感できるようになります。
自分を客観的に観察する
瞑想法の手順(3)で雑念がわいたら
「あぁ、いま私は上司のことを考えているなぁ…」と
繰り返し唱えると雑念が消えると書きましたが、
それは何故でしょうか?
雑念のなかにどっぷり浸かっている状態では、
「あの上司が憎い!」という言葉が
頭の中に渦巻いている状態です。
それに対して、
「あぁ、いま私は上司のことを考えているなぁ…」
と唱えるということは、自分を第三者の目から客観的に
観察している状態になります。
雑念にどっぷり浸かっている状態では、
次から次へと雑念がわいてきて止まりませんが、
自分を客観視すると、雑念は止まるように
私たちの体(脳)はできているようです。
これは、私も実際にやってみて確認しましたが、
たしかに自分を客観視すると雑念は止まりました。
しかし、ふと気を許すといつの間にか再び
雑念の中にどっぷり浸かってしまいます。
慣れないうちは、どっぷり浸かっている状態に
「気がつく」までが少し大変かもしれません。
瞑想の時間
瞑想を続ける時間は、初めのうちは30分程度。
慣れてくれば、2時間でも3時間でも良いそうです。
やればやるほど良いようなので、時間が許す限り
瞑想を続けてみるのも良いかもしれませんね。
日常生活にも応用できる
この瞑想法は、日常生活の中でも応用できます。
たとえば、仕事をしている時は、
その仕事のことだけに集中する。
仕事中に雑念がわいてきたら
「私は○○のことを考えているなぁ…」と
何度か唱える。
雑念が消えたら、また仕事に集中する、
というように。
未来に起こりそうな心配や、過去に犯した失敗などに
心を支配されず、今現在やっていることだけに
集中してください。
ほかに電車の中や、歩いている時など、
あらゆるスキマ時間を利用することができます。
忙しくてまとまった時間がとれない方にはオススメです。
参考にした本
この記事を書くために6冊ほど読んでみましたが、
特にオススメの本2冊を紹介します。
入門書としてオススメなのが、ひろ さちやさんの
「ブッダの教えがよくわかる―幸せに生きる仏の知慧 (日文新書)」です。
仏教についてとてもわかりやすく書かれています。
私たちの生活に仏教をどう活かすかという視点で
書かれているため、興味深く読み進めることができました。
「縁起」の部分を書く際に参考にさせていただきました。
次にオススメなのが、横山紘一さんの
「やさしい唯識―心の秘密を解く (NHKライブラリー)」です。
タイトルに「やさしい」と書いてありますが、
専門用語が多く、抽象的な表現も多いので、
それほどやさしい内容ではありません。
しかし、とても詳しく書かれているので、
深く理解したい方にはオススメです。
今回読んだ本の中では、個人的には
一番タメになったと感じました。
「空」の部分を書く際に参考にさせていただきました。
今までの流れを簡単にまとめておきます。
- 「苦」とは、思い通りにならないことを思い通りにしようとすること
- 苦しみから逃れるには「自分への執着」と「モノへの執着」を捨てる必要がある
- 「縁起の理」を深く理解すれば自分への執着を捨てられる
- 「真如の理(空)」を深く理解すればモノへの執着を捨てられる
- 「瞑想」を実践すると、「縁起」と「空」を深く理解できるようになる
瞑想以外の執着心を捨てる方法とは?
さて、できるだけ簡単な瞑想の手順をご紹介しましたが、
やはりそうは言っても、瞑想を極めるということは、
難しいと感じる人も多いようです。
お坊さんが毎日毎日お寺で厳しい修行を重ねても、
無我の境地に至るまでには何年、何十年も
かかると言われていますし、中には死ぬまで
到達できない人もいるわけです。
にもかかわらず、我々がちょっと瞑想したからと言って、
すぐに執着を捨てられると考えるのは、
いささか虫のいい考えなのかもしれません。
そもそも幸せになりたいから執着を捨てよう、
と考えているのであれば、それは幸せに
執着していることに他なりません。
執着を手放すことができるようになっていたら、
いつの間にか幸せを感じられるようになっていた、
というのが自然な流れと言えるのかもしれません。
では、執着心を捨てる方法として、
瞑想以外にどんな方法があるでしょうか?
私の経験上、物事の捉え方を変える、
つまり考え方を変えるという方法が、比較的効果を
得られやすい方法ではないかな、と感じています。
物事の捉え方一つ、考え方一つで
執着は捨てることができるようです。
執着心に隠された本当の原因
たとえば、こんな例があります。
以前、恋人と別れた女性から相談を受けたことがありました。
その女性は、別れた恋人のことが忘れられず、
うつ状態になってしまったそうです。
一見すると、元恋人に対して
強い執着心を持っているように感じます。
元恋人に対する執着心が原因なのだから、
それを捨てさえすれば、鬱々とした気分も
晴れるだろうと考えるのが自然なようにも感じます。
しかし、本当にそうなのでしょうか?
よくよく話を聞いてみますと、その女性は
すでに50代で「もう男性と恋愛することは
無理なのではないか」と考えていました。
つまり、その恋人のことを本当に必要としていた
のではなく、新しい恋人を作れる自信が持てないために、
その恋人に必要以上に執着してしまっていた、
という本当の問題点が見えてきました。
この場合は、恋人への執着心を手放そうとして、
瞑想で恋人のことを考えないようにしようとしても
うつの症状を改善するまでには至らないかもしれません。
そもそもの原因が、恋人への執着心ではなく、
「自分の年齢ではもう恋愛はできない」
という「間違った思い込み」であり、
その間違った思い込みを修正しない限り、
元恋人への執着心も消えることはありません。
「まだまだ自分は恋愛ができる」と考えることが
できさえすれば、世の中には他にいくらでも
男性がいるわけですから、何もわざわざ自分の元を
離れてしまった元恋人に執着する必要もなくなるわけです。
この例のように、そもそも自分の悩みの本当の原因が
わかっていないという方も多くいらっしゃいます。
本当の原因が理解できれば、つまり、自分の今の
状態を正しく認識することができれば、人間は
その状態から変わろうとし始めるように作られています。
しかし、悩みの本当の原因に気づけたとしても、
そこでまた一つ問題が出てきます。
その悩みに対する考え方を、どのように
変えれば良いのかがそもそもわからない、という問題です。
自分がラクになる考え方を選べば、必然的に執着は消える
・現在の執着や悩みの本当の原因を知り、
・悩みの原因となっている自分の間違った思い込みを修正する
上記の2点ができさえすれば、あなたを悩ませている
執着心を捨てることができますし、その結果、
必然的に幸せを感じられるようになります。
物事の捉え方、考え方を変えるにはコツがあります。
多くの人は間違った考え方をしているために、
悩みの本当の原因に気づかなかったり、
自分から苦しい生き方を選んだりしています。
自分を癒してあげる考え方ができれば、
瞑想を極めなくても執着を手放すことはできますし、
その結果、人生がとてもラクになり、いつの間にか
幸せを手にしている自分に気付くことができるようになります。
私の体験談が何かの役に立つかもしれません。
良かったらご覧ください。