やじろべぇのうつ病体験物語

こんにちは、40代のサラリーマン、やじろべぇと申します。
現在は妻1人、娘1人と共に千葉県でつつましく暮らしています。

ブログなど書いていますが、子どもの頃から
性格のおとなしい、内向的な人間でした。
それは今でもあまり変わらないと思います。

自分の内面を表現するのが特に苦手で、
人からはよく誤解されていたと思います。

集団生活も苦手で、人前では何も話せない、
そして「そんな自分が大嫌い」な子どもでした。

そんな状態でしたので、小学校時代から友達も少なく、
周りの人からは「いるのかいないのかわからない子ども」
と思われていたと思います。

とにかく『自分のことが大嫌い』

中学に上がる時に「明るい自分になろう」と決意して、
無理やり明るく振る舞いはじめました。

「明るくなったね」なんて言われて、
友だちも増えましたが、やはり「無理」は
長く続きません。

自分の中で「どうしようもない違和感」を
感じ始めてしまい、また元の「おとなしい人」に
逆戻りしてしまいました。

今まで仲の良かった友だちも、
急に話をしなくなった私を見て、
自分が「無視されている」と感じたのでしょう。

「なんだアイツ!俺を無視しやがった!!」と
みんな離れていってしまいました。

でも、弁解する気にもなれなかった私は
そのまま一人で学校生活を送っていました。

今考えてみると、「うつ」になる気質は
このころから充分に備わっていたようですね。

そんな状態でしたが、勉強はできる子どもでした。
1学年で500人ぐらいいたのですが、中間テストの
5教科合計で学年1位をとったこともありました。

しかし、依然として「自分のことが大嫌い」
なのは変わりませんでした。

予備校時代『強迫神経症』に苦しむ

「寂しい中学時代」を送ってしまったため、
高校でも最初は明るく振舞おうとするのですが、
違和感を憶えて、またすぐ元に戻る。

クラス替えのたびに、そんなことを繰り返していました。

そして、そんな自分が「どうしようもなく嫌い」でした。

高校時代は、毎日のように遅刻していました。

担任には、親を呼び出されて、
「県内で一番遅刻が多い」と怒られる始末でした。

大学受験をしましたが、現役では
合格できずに一浪することになりました。

あまり知っている人のいない予備校へ行こうと思い、
そんなに有名ではない予備校へ通うことにしました。

あまり親に負担もかけられないので、
奨学生として学費のかからない予備校を選びました。

ここでも友だちはできずに、
ほんとに「孤独」な予備校生活を送っていました。

このころに「強迫神経症」的な症状が出はじめました。

授業でわからない問題があると、「正しい答え」を
知るまで、気分が落ち着かなくなるのです。

「解答までの過程」などどうでも良く、
とにかく「正しい答え」を知っていないと
いてもたってもいられない気持ちになります。

授業で使うテキストには「解答」がついていません。

授業中に先生の話を聞き漏らしてしまうと、
永久に「正しい答え」がわからないままになってしまいます。

そうなると「不安」で気が狂ったような気持ちになり、
全然知らない人に「正しい答え」を聞きまくっていました。

おそらく「変な奴」だと思われていたことでしょう。

とにかく「正しい答え」を聞いて、気分を落ち着かせたい。

そんな状態だったので、「解答までの過程」は
まったく理解していませんでした。

「解答までの過程」を理解していないのですから、
「正しい答え」の導き方はわからないままです。

当然、成績も悪くなります。

そのあげく、第一志望の大学は落ちてしまいました。

それでも、すべり止めで受けた大学に
なんとか引っかかって、入ることができました。

『自転車』との出会い

大学生活が始まりました。

この頃には、もう完全に人と話すのが
苦手というか「苦痛」にさえなっていました。

入学当初に受けた「心理テスト」のようなもので、
良くない結果が出たのでしょう。

別室に呼び出されて、カウンセラーの方と
話をする機会を設けられました。

なんで自分がこんな所に呼び出されたのか
当時は全くわからなかったので、

「私は大丈夫です。何も問題ありません。」

の一点張りで、早々に帰ってきてしまいました。

大学に入ったら、もう中学や高校の時のように
「無理やり明るく振舞おう」という気持ちは
全く無くなっていました。

それでもやっぱり「大学生活は楽しく過ごしたい」
と思い、サークル選びを始めます。

自然が好きだったので、登山とか
ワンダーフォーゲル(野外活動)など
自然に親しむサークルに入ろうと思い探していました。

サークルの資料を読んでいると、その中に、
自転車でキャンプをしながら旅行するサークルが
あるのを見つけました。

特に自転車が好きなわけではありませんでしたが、
テントで寝起きしながら、自転車で気ままに旅行する
という生活が何とも私には魅力的に映りました。

結局、その自転車サークルに入ることになります。

初めての『親友』

そのサークルに入ったのが、私にとっては
大きな変化だったのかもしれません。

まず一つは「親友」と呼べる友だちが初めてできたこと。
もう一つは初めて「恋人」ができたこと。

特に親友の存在によって、大げさではなく

「自分は、この世界に存在してもいいんだ」

と初めて感じることができました。

それまでは、自分が何を言っても、何をしていても、
いつも「周囲との違和感」を感じてしまい、
自分に自信を持つことが全くできませんでした。

「自分のことを受け入れてもらえた」と感じたのは、
その友だちが初めてだったからかもしれません。

両親に対しても「自分が受け入れられている」
と感じたことは、それまで一度もありませんでした。

家族といても「違和感」を感じ、
学校にいても「違和感」を感じる。

そんな私が初めて「安心感」を感じたのが、
大学時代に出会った、その友だちでした。

あとにも先にも「友だち」と呼べるのは
彼一人しか現れないかもしれません。

でも、一人でも心から「親友」と呼べる人がいれば
それで十分なんじゃないかな、と思っています。

初恋と失恋

さて、そんな彼と出会って少し「自信」が持てるように
なった私は、一人の女性を好きになっていました。

この時は、その人のことを想うだけで、
胸のあたりが痛くなりました。

よく、マンガやドラマなどで
「恋をすると胸が苦しくなる」と言いますが、

「あれってホントだったんだ」と妙に納得した覚えがあります。

その女性とは、時々話したり何人かでお酒を
飲んだりするうちに、しだいに親しくなり、
冗談を言い合えるぐらいにまでなりました。

当時は少し言葉を交わすだけでも幸せでした。

そんな状態で数ヶ月がたち、
たまたま二人だけになる機会がありました。

「この機会を逃してはいけない」

そう思った私は、思い切って告白してしまいました。

驚いた彼女は、数秒間黙ったあと、
ポツリと言いました。

「うれしい…。私もずっと好きだった。」

「天にも昇るような気持ち」とは
このような時のことを言うのでしょう。

舞い上がってしまった私は、
その日一日中、胸のドキドキが止まりませんでした…

その日から付き合うことになった私たちでしたが、
そうそう良いことばかりは続かないものです。

ましてや、今まで女性と付き合ったことはおろか、
満足に人付き合いをしてこなかった私には
至らないところが多かったと思います。

まだこのころも「自分が嫌い」という
気持ちは依然として強くあったために、
普段からイライラしていることも多かったと思います。

そんな状態だったので、時に彼女に辛くあたって
しまうこともあったのかもしれません。

しかし、感情のコントロールがうまくできないため、
自分ではどうにもならない…

「このまま付き合っていてもお互いのためにならない」

一年ほど付き合った末に、こう彼女に切り出され、
あっけなく別れが訪れました。

ビルの屋上から地面に叩きつけられるようなショックを受けました。

失恋から『うつ状態』に

彼女と別れてしまってから、
胸にポッカリと大きな穴が開いてしまったようで、
何をする気にもなれない「うつ状態」になっていました。

(この後に体験するうつ病の症状と比べると、この時は
まだうつ病と呼べるほどの症状ではありませんでした。)

当時は「うつ病」なんて言葉は、まだ一般的ではなく、
わたし自身も知りませんでした。

「これは心の病なのかな」と漠然と考えて
大学構内にあったカウンセリングルームへ行きました。

カウンセリングルームでは、女性のカウンセラーの方と
一対一で話をしてもらいました。

3回ほど通ったでしょうか。

しかし、話を聞いてくれるだけで、
とくに症状が改善したりする気配もありません。

「このまま通っていれば良くなるだろう」
という気持ちになれなかったため、
途中で通うのをやめてしまいました。

後で知りましたが、カウンセリングとは
そういうもののようですね。

その女性カウンセラーの方から、大学構内に
心療内科の先生がいることを教えてもらいました。

「何か参考になる意見を聞けるかもしれない」
と思い、その先生のところへ行ってみました。

その先生は、経験豊富そうな初老の男性でした。

血液検査をしたり、問診を受けたりして、
心の病に良いとされる方法をいろいろ教えてもらいました。

その中に「運動療法」がありました。

「運動療法」というと大げさですが、
ただ単に「運動すると心にも良い影響がありますよ」
ということです。

それを聞いた私は、「このままではいけない」と
思っていたのと、ちょうど夏休み前だったこともあり、
夏休みに1ヶ月ほど「高原野菜のアルバイト」に
住み込みで出かけることに決めました。

高原野菜のアルバイト

「高原野菜のアルバイト」はうつ状態を
払拭(ふっしょく)するにはとても効果がありました。

体力には、ある程度自信があったのですが、
想像を絶するほどの運動量に驚きました。

朝は4時ちょっと前に起き、朝ごはんを
しっかり食べて、畑仕事に出かけます。

作物の種を植えたり、水や農薬を撒いたり、
できた作物を収穫したり、収穫した作物を
市場に運んだりと、毎日何かしらやることがあり、

「農家ってこんなに大変なのか」

と驚いたものです。

最初のうちは、筋肉痛で大変でしたが、一週間もすると
慣れてきて、どんどん体力がついてくるにつれ、
気分も以前とは比べ物にならないぐらい良くなってきました。

「カラダ」と「こころ」がつながっている、
ということは、まだこの頃は意識していませんでしたが、
「カラダ」を改善すると、「こころ」も良くなる
ということを肌で感じた良い体験でした。

また、そこはかなりの田舎で、住み込んでいる
農家以外には、周りにコンビニも何もありません。

余計なことを考える必要もなく、
「ただその日のことだけを考えていればいい」。

それがまた「こころ」に良い影響を与えていたと思います。

この時、大学3年生の夏でした。

大学を中退して北海道へ

さて、大学4年になり、いよいよ卒業も間近という時に、
また「抑えられない衝動」が首をもたげてきました。

「このまま卒業して就職しても
 今の自分に誇れるものはあるのか?」

そんなことを考えてしまうようになり、
「手に職をつけて、一人で生きていく力をつけたい」
と思うようになりました。

自分に「確固たる自信」を持ちたかったのだと思います。

その反面、人付き合いはしたくなかったので、
誰も知らないような土地へ行くことにしました。

大学を中退することに決め、
退学届けを提出してから両親に話をしました。

当然、父親は怒り狂って怒鳴りました。

「これは、裏切りだ!」

母親はずっと泣いていました。

それでも、自分の考えていることを話し、
両親は納得してはいなかったでしょうが、
中退の話は了承してくれました。

私は北海道の「木彫りの店」で
アルバイトをすることにしました。

「手に職をつけたい」などと言いながら、
ただ単に逃げ出したかっただけなのかもしれません。

逃げるように北海道へたどり着きました。

木彫りの店でアルバイト

どんな店なのか、まったく予備知識がありません。

「木彫りの店」というぐらいですから、
人里離れたところで、木彫りの職人さんが
黙々と作品を彫り続けているようなイメージを
勝手に抱いていました。

ところが、思っていたのとは全く異なり、
おみやげ屋さんが立ち並ぶ店の中の一つで、
木彫りの民芸品はたくさん置いてありましたが、
店の主人が彫るわけでもありません。

お客さんに売る木彫りのスプーンとか
小物入れとかに、名前を彫ったりするだけで、
基本的に「接客業」でした。

思っていたイメージとは、ほど遠いものでした。

「人里離れたところでひっそりと暮らしたい」

なんて思っていたのですが、お店の人や
観光客でいっぱいでした。

しかも、ご近所づきあいも田舎なので濃厚です。

しかし、不思議と思ったほどイヤではありませんでした。

現地の人もいましたが、都会からやってきた人も
多かったので、何となく気が休まったのでしょうか。

「都会ではうまく生きられない人たちが集まっている」

そんな印象を受けたからかもしれません。

近くのお店で働いているアルバイトの人たちも
みんなどことなく「都会には馴染めなかったんだろうな」
という印象を受けました。

お店では、下の名前で「○○ちゃん」と
ちゃん付けで呼ぶことが慣例になっているようです。

最初は違和感がありましたが、
そのうちに慣れ、むしろその距離感の近さが
なんだか嬉しいような感じもあったと記憶しています。

私の働いていたお店には、私と同時期にもう一人
同い年ぐらいの女の子が雇われていました。

この女の子もやはり同じように
「どこか都会ではあまり馴染めない」ような印象を受けました。

雄大な自然との遭遇

接客は苦手でしたが、ここでの暮らしは
それほどイヤなものではありませんでした。

時々、アルバイト仲間同士で集まって
飲み会をやったりして、それなりに
楽しく過ごせていました。

そこは観光地でしたが、少し外れると
自然がたくさんありました。

私は自転車を持ってきていたので、
休みの日には、自転車で遠乗りしたり、
自然の中を散歩したりしてのんびりと過ごしていました。

誰もいない山の中に散歩に入った時に、
ふと気がつくと、とても大きなエゾジカが
触れると届くぐらい近くまで来ていました。

とても立派で丈夫そうな角をはやしています。

エゾジカに襲われて死んだ人のニュースも
その土地ではときどき流れていました。

「体当たりされたら死んでしまうだろうなぁ…」

そんなことをぼんやりと考えながら、
エゾジカをじーっと見つめていたら、
向こうもじーっと私のことを見ています。

私はとても慎重に、少しずつ後ずさりしながら、
エゾジカとの距離を広げ始めました。

目はお互いにジッと見つめ合ったまま。

時間をかけて十分な距離をとってから、
後ろを向いて坂をくだり始めました。

エゾジカは、とくに追ってくることもありませんでした。

雄大な自然との遭遇でした。
不思議と恐怖感はありませんでした。

新聞奨学生として専門学校へ

北海道は夏が終わるとすぐに寒くなるため、
その観光地には、それほどお客は来なくなります。
(8月下旬にストーブをつけていたのには驚きました。)

おみやげ屋さんのアルバイトも、
9月いっぱいぐらいまでの契約でした。

アルバイトが終わった後も、冬の北海道を
見たかったので、そのまま北海道に残り、
正月を過ぎたぐらいに帰ることにしました。

このころは、
「都会に帰ってもう少し頑張ってみようかなぁ…」
と思えるようになっていました。

実家に戻ると、とくに何をやればいいのかわからなかったので、
近所の新聞屋で新聞配達の仕事を始めました。

そこで、偶然同級生が働いていました。

同級生は、新聞奨学生として、働いて学費を稼ぎながら
新聞配達をしているとのことでした。

「そんな方法があるのか」

私はそう思い、学校へ行き直して、
「今度はちゃんと手に職をつけよう」
と考えました。

絵を描いたりすることが昔から好きだったので、
そういった勉強ができる学校を探しました。

色々調べて、東京のデザイン専門学校へ
通うことに決めました。

働く新聞屋も決めて、四畳半、トイレ共同、風呂なしの
アパートに引越し、2年間働くことになりました。

この時期は、新聞配達と専門学校の
二足のわらじで、体力的に大変でした。

朝は3時ぐらいに起きだして、新聞配達を
6時半ごろまでやり、その後専門学校へ行って、
14時ぐらいまで授業を受けます。

15時ぐらいから夕刊の配達。
18時ごろに終わると、専売所で賄い(まかない)の
夕食を食べ、アパートに帰って学校の課題をやります。
月末には集金作業も加わります。

毎日この繰り返しでした。

大変でしたが、充実はしていました。

専売所は、やっぱりどこかアウトローというか、
一般社会からはみ出したような「変わり者」の
はきだめのような所でした。

私にとっては、かえってそういう所のほうが
居心地が良いようです。

意外と楽しく2年間過ごすことができました。

その専売所で現在の妻と出会い、交際が始まります。

初めての『うつ病体験』

専門学校を卒業後、ある有名企業の
印刷部門を担当している関連会社に就職が決まります。

契約社員として入社したのですが、
残業代もきちんと支払われ、今考えると
待遇はかなり良かったと思います。

一年ほど経過して、ようやく上司にも認められて
きたころに、「うつ病」が発症してしまいました。

この時の直接のきっかけは「祖父の死」だと思います。

特に祖父に可愛がられたとかでは
なかったので不思議なのですが…。

初めて身近に感じた「死」によって、
大きなショックを受けていたのかもしれません。

祖父が亡くなり、会社に数日休みをいただきました。

お通夜、お葬式も済んで、いざ会社に出社する日、
なぜか布団から起き上がることができませんでした。

「ん?何かおかしいぞ…」

そんな感覚は初めてのことでした。

その時は全く意味がわかりませんでしたが、
今考えてみると、お葬式・お通夜では
気が張り詰めていたので症状が現れなかった
のではないかと考えています。

当時は一人暮らしをしていたのですが、
そのまま会社に電話もできずに、無断欠勤をしてしまいます。

なぜだかわかりませんが、全く動く気にもなれない。

数日間、トイレ以外はほとんど布団の中で過ごしていました。
お風呂に入る気にもなれません。
食事も時々冷蔵庫にあるものをそのまま食べるぐらいで、
ほとんど食べていませんでした。

会社からは、何度も電話がありましたが、
申し訳ないですけど、出る気になれませんでした。

一週間ほど経過したころでしょうか、
扉をノックする音とともに私の名前を呼ぶ声がしました。

「○○君!○○君!」

声の主は上司のようです。

さすがに出ないわけにもいかず、髪はボサボサ、
無精ひげだらけのだらしない格好で扉を開けました。

異様な雰囲気に上司も驚いたようでした。

部屋の中に入り、少し状況の説明をして、
話し合った結果、「勤務を続けることは無理」
ということで、自主退職することになりました。

私も無断欠勤して迷惑をかけてしまった手前、
申し訳ない気持ちもあり、素直に退職を受け入れました。

一度会社に来て、退職手続きをするように言われました。

とても辛かったのですが、なんとか会社へ行き、
同僚の好奇の目にさらされながら、退職手続きを済ませました。

これが初めてのうつ病体験です。

自転車で日本縦断旅行

その後しばらく、部屋に引きこもっていたような状態でした。

この時、交際していた今の妻が心配して
部屋に来てくれていました。

食事などを作ってくれていたので、
とりあえず出されたご飯だけは食べていました。

しかし、こんな状態で良いとはもちろん思っていません。

この時もまだ「うつ病」という病気のことは知りませんでした。

「病院で治す」ということも考えたことすら
なかったので、家で引きこもっているうちに、
少しずつ症状も回復してきました。

「このままではいけない…」

そう強く思っていた私は、以前
「高原野菜のアルバイト」でカラダを動かして
気分が改善されたことを思い出しました。

カラダを動かそうと思い、好きな自転車旅行で
「日本縦断をしよう」と決意しました。

どうも私は極端から極端へ
物事を考えてしまう傾向があるようです。

その時はとにかく「自転車で日本縦断」
をすれば、治ると思い込んでいました。

日本縦断の旅、スタート

テントや寝袋、着替え、自転車などを担いで、
今後の生活もあるのでお金はなるべく節約しようと、
「青春18切符」を持って、東京から九州の最南端まで
鈍行を乗り継いで移動しました。

鈍行なので、一日ではたどり着きません。
だいぶ前のことなので、あまり憶えていませんが、
青春18切符で乗れる夜行列車というものがあり、
それを乗り継いで九州まで行きました。

たしか「大垣」という駅で乗り換える電車だったと思います。

お金のない学生などがよく使っている裏技です。

九州で最南端の駅で降り、そこで自転車を組み立てて、
荷物を積み込んでさらに九州最南端の「佐多岬」へ向かいます。

そこからが「自転車日本縦断の旅」のスタートです。

ただひたすら北へ北へと自転車をこぎ続ける毎日です。
夕方になると、その日に泊まる公園と銭湯を探します。

本当はキャンプ場などが良いのですが、
キャンプ場はたいてい奥まった場所にあり、
坂を登った山の中腹とかにあることが多いです。

移動が大変なので、もっぱら普通の公園に泊まっていました。

地元のヤンキーなどが来ることもあるので、
けっこう恐かったのですが、

「何かされたら、もうしょうがない。
 その時考えよう。」

と、半ばヤケクソ気味に公園を泊り歩いていました。

不思議と何かちょっかいをだされる
ようなこともありませんでした。

向こうも向こうで、公園でテントなんか張って寝泊りしている
「ヤバイ奴」という印象を持っていたのかもしれません。

うつ病からの回復

時には海沿いを軽快に走ったり、
時には大好きな山をシャカシャカ登り続けたり、
毎日毎日、自転車をこいで移動するだけの生活。

温泉地では温泉に入り、地元の美味しい名産を食べる。
私にとってやはりとても快適な旅でした。

余計なことを考えず、体もどんどん鍛えられ、
日に日に健康的になっていきます。

大好きな山に囲まれた長野県あたりに来た頃には、
もうすっかり気分も回復していました。

本州最北端から北海道へはフェリーで渡ります。

北海道に上陸すれば、日本最北端の
「宗谷岬」まであと少しです。

海沿いはとにかく風が強いです。
こいでもこいでも中々思うように進みません。

宗谷岬へ着くまでの海沿いが、
この時の旅の中では、風を一番強く感じました。

快適な旅とは言え、毎日自転車をこぎ続けていると
「文明的な生活」が恋しくなってくるものです。

「早くゴールして、やわらかい布団で眠りたい」

そんな気持ちで、ようやく宗谷岬にたどり着きました。

かかった期間はだいたい45日ぐらい。

「よく走ったなぁ…」

感慨深い気持ちを胸に、ビュービュー風の吹く
宗谷岬を後にし、来る時に通り過ぎた
「稚内空港」へまた自転車で引き返しました。

稚内空港から羽田までは約2時間。

自転車で何日もかけて走ってきた距離ですが、
アッという間に到着してしまいました。

「やっぱり文明の力はすごいなぁ」

などと間抜けなことを考えながら、私の
「日本縦断 自転車の旅」は終わりを告げました。

再就職、そしてうつ病の再発…

さて、東京の自分の部屋に戻ると、
これからの生活のことを考え始めました。

気力も体力も十分に蓄えられていましたので、
片っ端から会社へ電話し、面接を受けました。

その時に、良さそうな会社があり、面接をした
副社長にも気に入られ、採用が決まりました。

まだ「ペーペー」だった私は、そこで技術を
身に付けようと、5年間ひたすら仕事に打ち込みました。

従業員15人ぐらいの小さな会社でしたが、
とても良く面倒を見てくれる先輩がいて、
居心地はとても良かったです。

面接をした副社長が「凄腕の営業マン」で、
最初のうちはよく怒られたものですが、
5年たったころには、だんだん私のことも
認めてくれるようになっていました。

夜、遅くなることが多かったため、
会社の近くに引越し、夜中でも帰れるように
自転車で通勤していました。

そんなある日のこと。

いつものように、夜中に仕事を終えた帰り道。
突然、ペダルをこぐ足が重く感じられました。

まったくこぐ力が出ずに、歩いて自転車を押しながら
帰った時のことは今でも鮮明に覚えています。
少し動くだけでもしんどくて、ハアハア息を切らせながら
なんとか家までたどり着きました。

「えっ!?なんで??」

なぜ、力が入らないのか、
その時は、まるっきりわかりませんでした。

そのころ、新聞屋時代から付き合っていた
現在の妻とすでに結婚していました。

家に着いて、妻に事情を説明し、とりあえず
その日はどうにもならないので寝ることにしました。

次の朝、症状は前日と同じで、体を動かすだけでしんどいです。

まったく起き上がれずに布団から出る気力さえありません。

電話をすることも出来ないぐらいしんどかったので、
妻に代わりに電話をかけてもらい、休むことにしました。

このころには、「うつ病」という病気も
世間に知られ始めていたので、私も
「何かしらの心の病気かな…」と考えることはできました。

初めてのメンタルクリニックと医師への不信感

数日休んで、少し動けるようになったので、
近所のメンタルクリニックへ行くことにしました。

小ぎれいな病院の小太りな医師。
しばしの問診の後、医師の診断は

「うつ病ですね。」

「しばらく休養した方が良さそうです。」

予想通りだったので、特に驚きはしませんでしたが、
「うつ病」という診断を初めて受けた瞬間でした。

当時発売されたばかりのSNRIという抗うつ薬「トレドミン」を
処方され、診断書を書いてもらい、家に帰りました。

会社に電話し、一ヶ月ほど休みをもらうことになりました。

5年間、有給休暇を使っていなかったので、
一ヶ月間は有給で休ませてもらえました。

2週間ほどゆっくり休んでいると、だんだんと
症状も収まり、動けるようになってきました。

「気分転換に温泉旅行にでも行ってこよう」

そう考えて、3泊4日の温泉一人旅に出かけました。

温泉地では、あまり余計なことも考えずに、
散歩をしたり、本を読んだりしてのんびり過ごしました。

この時に読んだ本が、
宮部みゆきの「ブレイブ・ストーリー」。

内容は細部まではよく憶えていませんが、
ある少年の冒険物語で、当時は読みながら
いろいろと自分に当てはめたりして
様々な「気づき」を得たような記憶があります。

気持ちが回復した一つの要因だったと思います。

温泉旅行から戻り、残りの休みを消化し、
再び会社に出勤し始めました。

しかし、しばらくすると、また症状が悪化し始めます。

病院へ行っても、あまり話を聞いてもらえず、
「医師は薬を出すだけ」という印象でした。

また休みをもらうのも気が引けて、
「医師は頼りにならない」と感じていたので、
一人で判断し、会社を辞めてしまいました。

その後、病院へ行き続けても良くなるとは
思えなかったので、病院へ行くのもやめてしまいます。

職業訓練で簿記を学ぶ

2ヶ月ぐらい家で休んでいると、
ようやく症状も回復してきましたので、
ハローワークで仕事を探すことにしました。

ハローワークで「職業訓練」という制度を知り、
「簿記」を学べるということで、申し込むことにしました。

デザイン以外の職業の可能性も
探ってみたいという気持ちがあったからです。

申し込むには「簿記3級」の資格が必要とのことだったので、
1ヶ月ぐらい勉強して3級に合格しました。

半年ぐらい職業訓練を受講してみました。
3級は比較的合格しやすいのですが、2級や1級になると
相当難しい。ましてや税理士や公認会計士などは
当然のことながら、かなり勉強しないと無理のようです。

「もう一度、デザインに戻るのもいいかな」と
思えるようになっていたので、職業訓練が終わってから、
またデザイナーとして職探しを始めます。

3度目の転職も、うまく行かず…

次に決まった会社は、待遇は良かったのですが、
私が社長から嫌われていました。

体育会系の社長にとって、
私はおとなしすぎたのかもしれません。

年中「自己主張が足りない」と怒られていました。

ワンマン社長だったので、
「社員からの評判」はとても悪かったのですが、
社長に嫌われてしまうと、ことあるごとに
罵声を浴びせられます。

この会社は、従業員が30人ほど。

大人数には馴染み(なじみ)づらい私にとって、
あまり居心地の良い会社とは言えませんでした。

当時「何とか変わろう」と思い、200万円近くする
「自己啓発のDVD」をローンで買ってしまったりと、
精神的にかなり追い詰められていた事が思い出されます。

直属の上司は良い人だったのですが、

「社長に嫌われたらどうしようもないよ。
 まだギリギリ転職もできる年齢だし、
 別の会社に進んだほうが良いと思う。」

そう忠告を受け、勤務時間後に何社かの面接を受け、
採用が決まり、退職することになりました。

大人数は自分の性格上無理だと思い、ごくごく
少ない人数の会社に転職することになりました。

4つ目の会社

この会社は、社長がとても良い人で、
居心地は良い会社です。

しかし、待遇面ではあまり良いとは言えませんでした。

試用期間中の給料は、大卒初任給程度。

会社が変わったので引越しをしたり、
「自己啓発のDVD」のローンも残っていたので、
思ったよりも家計が苦しくなっていました。

貯金も底をつきかけていたので、
この時期は金銭面でとても大変でした。

しかし、頑張るしかありません。

この会社が「時間的な束縛」では今までで一番長かったです。
仕事の量も今までと比べ物にならないぐらい膨大でした。

そんな中、毎日終電ギリギリまで仕事をし、
時には何日も徹夜をしながら、
必死になって仕事を続けていました。

1年たつと認められるようになり、
給料も上げてもらえました。

4年ほどたつと「自己啓発DVD」のローンも払い終わり、
ようやく少しだけ余裕が出てくるようになりました。

そのころには、社長からも信頼され、
昇進させてもらい、「チーフデザイナー」という
立場にしてもらえました。
(少人数ですから大したことはありませんが。)

度重なるうつ病の再発

昇進したことによりますます忙しくなり、
「時間的な束縛」はますます厳しくなりました。

一週間ぐらい泊まり込みで仕事をするのはザラでした。
しかし、残業代などは一切出ません。

さらに、折からの不況により、会社の業績は
年々厳しくなっていきました。

「給料カット」はありませんでしたが、
社員の「ボーナスカット」で、将来にも
暗雲が立ち込めてきました。

入社5年目、今まで散々無理をしてきたのが
体に出てきてしまいました。

ある朝、起き上がろうとしても、カラダが動きません。

「またか…」

目の前が真っ暗になりました。

ローンを払い終えたばかりで、
まだそれほど貯金もありません。

子どもも生まれていたので、これからお金がかかります。

そんな時にまた…

度重なる再発にうんざりしていました。
しかし、こうなると自分ではどうにもなりません。

何度か経験していることなので、
以前ほどの「動揺」が無かったことだけが
せめてもの救いでした。

知識は『強力な武器』になる

このあたりのことは別の記事で詳細に書いていますので、
ここではザックリとだけ書いておきます。

長期の休みをもらうことになりましたが、
毎日生活費はかかります。

どんどん貯金がなくなっていくことで、
精神的にも余計に不安定になってしまいました。

しかし「傷病手当金」という制度を知り、
無事に生活費を確保しながら療養生活を
送ることができました。

療養生活中に、病院の治療と並行しておこなった
「食事療法」でカラダの調子が良くなりました。

以前の体験から、

『カラダを整えると心にも良い影響がある』

ということを憶えていたので、
「食事療法」を試してみたことが功を奏しました。

今までの辛い体験も、まるっきり無駄だった
というわけではありませんでした。

「傷病手当金」や「食事療法」という新しい知識を
得たことによって、「生活苦」と「うつ病からの回復」に
対処することができました。

その後は順調に回復し、仕事にも復帰することができました。

現在の仕事環境と今後について

復帰の際に、会社に一つ「お願い」をしました。

「チーフデザイナーは辞退します。
 給料が安くなっても構わないので、
 自宅で仕事をさせてください。」と。

なるべく「再発」の可能性を減らすためと、
自分の性格などを考慮した上での決断でした。

「カラダを壊しては元も子もないから」と
妻も承諾してくれました。

会社も私の「お願い」を受け入れてくれました。

それ以降、自宅で仕事をさせてもらい、
まだ再発することなく、以前より快適に過ごせています。

ウェブの知識も持っていたほうが、今後
何かの役に立つだろうと、ブログを始めました。

(仕事でウェブデザインをすることはありますが、
画像の作成などがメインで、ブログの運営などは
したことはありませんでした)

テーマは「うつ病」。

今後、再発をしないために、うつ病について
詳しく知っていたほうが良いですし、
自分の「知識欲」も満たせるのでちょうど良いと考えました。

現在、ブログは300記事に達成しました。

ブログを書くようになってから、様々な
うつ病の本を読んだり、うつ病教材を実践したりで、
自分なりのうつ病への対処法も確立できてきました。

今までの体験とも照らし合わせて、うつ病は
薬を使わずに体から治す」という方法が
一番自然な方法なのではないかなと感じています。

前述しましたが、私がうつ病を根本的に克服できたのは、
「食事療法」でうつになりにくい体に体質を改善したから
ということが大きかったです。

うつに効果的な食事療法は、
荒木式うつ病改善プログラム」という
教材を購入して実践しました。

この教材で効果が得られたことに気を良くして、
その後、様々なうつ病教材を自腹で購入し、
取り入れられる部分は取り入れ、自分なりに
カスタマイズして実践を続けています。

教材は決して安いものではないので、
全てを合わせると結構なお金(ウン十万円)が
飛んで行ってしまいました。

中にはどうしようもない教材もありましたが、
せっかくなので、良いと感じた教材をランキング形式で
自分なりにまとめてみることにしました。

各レビューページでは、良いものは良い、
悪いものは悪いとして、教材の中身や
感想を率直に詳しく批評しています。

最初は自分の知識欲を満たすためだけに
始めたブログの運営ですが、読者さんと
コミュニケーションを取るうちに、
私の体験でも役に立つことがわかりました。

著作権の問題があるので教材内容を
書くことはできませんが、元うつ病患者の視点から
教材の善し悪しを判断し、お伝えすることはできます。

どうせなら、せっかく得た知識を、
かつての私と同じように苦しんでいる
人たちのために役に立てたい。

皆さんの役に立てれば、それはまた
私のやりがいや喜びにもつながります。

自分自身が社会の役に立っていると感じられれば、
精神的にも良い循環をもたらします。

そう考えると、結局は自分のためなのかも
しれませんが、人の役に立つことと自分の
満足が両立できるのであれば、それでも
良いのではないかなと考えています。

そのような思いで、皆さんの役に立てるような
うつ病教材のレビューブログを運営し続けています。

まず初めに、私がうつ病で苦しんでいるみなさんに
お伝えしたいことは「抗うつ薬」についてです。

うつ病と診断されると、医師から抗うつ薬を
処方されるのが一般的だと思います。

皆さん、医師に勧められるがままに
抗うつ薬を飲んでいると思いますが、その前に
ぜひ知ったおいてもらいたい事実があります。

これを知らないと、自分には効果のない
抗うつ薬を飲み続け、何年もうつ病に
苦しむことにもなりかねません。

そのような悲劇に陥らないためにも、
まずはこちらの記事をぜひ読んでみてください。

>>うつ病の薬は飲みたくない!~10年以上治らないあなたへ


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